海路から神に参る

沖縄県 慶良間諸島 座間味港

慶良間諸島 座間味  で神社に参る
2006.11.14
座間味にはことの他、数多くの拝所がある。殆ど全て赤い鳥居がある。
拝殿は沖縄式の建物で赤瓦の家の形をしている。中に香をたく石の四角い香立てがある。
拝む対象としては石やサンゴやいろいろなものがある。神社名は記載されていない。
座間味の港のすぐ側にある一番大きくてめだつ神社のみ神社名がある。いびぬめえ神社と鳥居にある。

当日のブログ:
http://blogs.yahoo.co.jp/sa3307/42026586.html

2006.11.17(金)
観光案内所で拝所について聞く。
お祭りをやるいびぬめえ神社と古座間見海岸へ向かう道の左側奥の二つの神社と教えてくれる。

座間味、慶良間の戦闘
緑の山の裾に遠くから赤い小さな鳥居が見える。参拝して降りてくると畑仕事をしていた男性とこんにちわと挨拶を交わす。
どちらからという問いかけから話が始まる。
戦争中、今お参りした場所で集団自決しようと集まったが結局、それぞれが自決することになった。
クワで首を切り、頭を割って殺した。乳を何日も与えていない赤ん坊を胸に押し付けて殺した。
泣いて何故ころされるのだと叫ぶ小学生を木に縛りつけその縄を占めて殺した。
座間味では軍隊がいた。
島民は民宿していた軍人に米軍が来れば男は性器を切り落とされ殺され、女は犯されて股裂きにされ殺される。
米軍により殺されるより大和民族自身に殺された方がよいだろうと教育された。
語る人は当時15歳。古い鉄砲で立ち向かった。攻撃を受け気を失い生き残ることになった。
800名の村民の内、400人が死んだ。山は爆弾で禿山になり、山の形も変わってしまった。
座間味や慶良間のこのような状況は生き残った人により書き記されていない。身内がいるかぎり書き記すことは出来ない。
思い出すことさえいやだ。と言って急に話を切り上げて畑に引き返していった。

座間味村のホームページより
【信仰の島】
久高島とともに信仰の篤い島です。
毎月、島のどこかで行事が行われています。
【この島には古からの歴史がある】
慶良間といえば座間味村と渡嘉敷村の通称。
以前は沖縄本島から見て手前に見える渡嘉敷村の一帯を「前慶良間」と呼び、その後方の座間味村の島々を「後慶良間」と呼んできた。
琉球史の第1期頃1264年英祖王の時代に久米島、伊平屋と共に首里に入貢しており古くから住民がいた事が立証される。
俗に天孫子の子孫が渡来して住民の開祖であると伝えられており、
1314年に三山が分立してその子孫といわれる旧家(保存されていた遺品は戦争のため紛失)は現存している。
主に那覇の住民が渡島しその嗣子が繁栄したといわれており、首里、那覇との縁故が深いと思われる。
住民は昔から海洋思想に富み1350年察度王が明国と朝貢関係を結び進貢船が航海するようになってから進貢船の船頭を数名出している。
【唐船貿易の中継地の島】
(沖縄と中国の公式交通は1372年より始まりました。
約630年前に阿児の浦港に唐船グムイと呼ばれる船溜り場の跡が残っています。
番所山の烽火台は唐船がやってきたときの合図に使われていました。
【旧藩時代
各間切に地頭職が置かれたが地頭は藩主の所在地である首里に居住していたため、間切を巡視するため地頭代と称する代理職を置いていた。
【古座間味貝塚】
座間味島の古座間味一帯に広がる新石器時代前期からグスク時代にかけて形成された複合遺跡。
1980年、81年の発掘調査で前期と後期の住居跡が見つかり、内部から土器や石器、貝製品が多数出土している。
また、住居跡の貯蔵穴から21個のゴホウラ貝に混じり黒曜石の(はくねん)が見つかっている。

 いびぬめえ神社  唯一の神社名  
 
 海洋文化会館  海洋文化会館前全景  
 
 海洋文化会館となり  海洋文化会館手前  
 
 安護の浦阿佐  阿真  
 
 町中の拝所  祠  
 
 拝所内部  拝所内部  拝所内部
     

米軍が攻めて来たとき15歳であった島民が語ってくれたのは右下写真の畑のそばであった。

 もう一つのお祭り場所  遠景